
けん玉、お手玉、ルービックキューブ……相談室のテーブルや棚の中に置いてある遊具です。子どもたちはそれらを手に取り、やり始めます。うまくできると満足そう。でも、「誰かが見ている時」に限るようです。気づかないでいると「も~、ちゃんと見ててよっ」と不満そう。「見てて」と言える子はいいですね。一言も発せず、おもちゃを棚に戻してしまう子もいますから。
成功する、しないは二の次、注目していてもらえることが嬉しいのです。うまくできた時に「できた!!」、できなくても「おしかった!」といっしょに一喜一憂。
小学生の時、粘土でカバを作ったことがあります。私にとっては最高傑作でした。でも、他の人には袋から出したままの粘土の塊にしか見えなかったのかもしれません。教室に展示されたカバを見る人は、誰もいませんでした。私は黙って下を向いていたような気がします。
子どもたちは次々と挑戦します。その時、「見ているよ」と応援してもらえる子どもたちは幸せです。それがあるから失敗を恐れず、新しいことにも挑戦していけるのです。
しかし、人間には限界があります。いつまでも見守り続けられるのは神さまだけ。「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている」(詩編139・16)という御言葉もあります。私が見守ることを通じて、この御言葉をしっかり子どもたちに伝えたいです。
塩谷洋子

「チャッピー(chat GPT、対話型生成AIの一つ)に友だちとのことを相談したら〇〇と言われた。どう思う?」などと子どもたちに尋ねられるようになりました。AI技術はすばらしいです。24時間、匿名で応じてくれます。豊富な情報から適切と思われる答えを瞬時に提示します。自分で考える手間も省け、コスパもよいです。しかし、子どもたちは私に「どう思う?」と聞くのです。
チャッピーとカウンセラーは違います。「AIには意味を理解できる仕組みが入っているわけではなくて、あくまで『あたかも意味を理解しているようなふり』をしているのです。しかも使っているのは足し算と掛け算だけです」(新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』)。
カウンセラーは対話を通して、子どもたちの苦しみや痛みを受け止め、何ができるかを一緒に考えます。その際、目を合わせ、視線、表情、しぐさ、息づかいなども体感します。巻き込まれてカウンセラーとしての役目が果たせなくならないように配慮しながら「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12・15)を実践します。更にここで、祈る者もいるでしょう。
子どもたちはチャッピーの「ふり」だけでなく、本当は気持ちの理解も求めていると言えるのではないでしょうか? もしそうであるなら、会話や情報取得ならチャッピー、生死に関わるような深い相談ならカウンセラーがいい。このように思ってもらえるよう私も日々、努めたいと思います。